記憶に残る山 記録に残った山  ⑥

アルプスの休日

2週間滞在したベニの谷から、私たちは久し振りにフランスのシャモニに戻ってきた。
 再度あのクーロワールをアタックするには、天候の動きが掴み難いイタリヤの深い谷底にいるよりも、シャモニに居る方が有利な事が分かったからである。
 シャモニに居れば、ガイド組合の出す天気図も見られたし、気圧計もあって天候の予測も出来た。それにチャンスが到来すれば、私たちには車があるので何時でも登山口まで行く事が出来た。

 シーズンを迎えたシャモニの街は活気ずいていた。
 街には観光客があふれ、キャンプ場は色とりどりのテントが花を咲かせたように鮮やかで、日光浴をする人、ゲームに興じる人と、それは大変賑やかな場所に変わっていた。
 私たちのキャンプは、イタリヤ、スペイン、オーストリヤ、アメリカ、ドイツなどから来たクライマーたちのキャンプの中にあり、侭ならない会話も幸いな事に、登山用語を羅列するとこれが又けっこう通じ合うから実に楽しかった。
 

 ‥‥‥‥その日は異常に気温が高く、ボソン氷河の氷がどんどん融けて、氷河の上を川となって流れるほどだった。こんな時の氷河は、動きも激しい。
 何時もと大分変わってしまった様子に驚きながら、それでも一通りのトレーニング消化した。
 最後にもう一回だけ登りたいというのを、反対する理由もなく私も彼らに同調した。
 私が垂直の氷壁を登り終えると、木下五郎が続いた。
 彼が氷河上に押し出された巨岩の下手を横断している時、とんでもない事が起こった。
 流れる水で滑り台と化した氷河の上を、重さ数10トンの巨岩が突然滑り出したのだ。
   
   「ゴンゴンゴンゴン、ゴンゴンゴンゴン」

 重く鈍い音を響かせながら、彼が安全のためにと結んでいたザイルを引き込んでしまった。
 辛うじて一旦は逃げ延びたのだったが、このザイルに引かれて再び巨岩の下に呑み込まれてしまった。
 確保している私からは見えないし、どうする事も出来ない。 「ググーー」と引っ張られていくザイルは見る見るうちに細くなって伸びていく、支点のハーケンとピッケルが今にも抜けそうなので、ザイルを切断したいがそんな余裕も
ない。ザイルを切断しない限り、私も引き落とされる。なす術のないまま、運を天に任せて目をつぶった‥‥‥。

  「五郎さんが潰された!」  「‥‥‥‥‥」  「物凄い勢いで血が噴いている」。  「俺は助かった」 

 こんな恐ろしい事が起こったというのに、一瞬自分の無事をよろこんだ。生と死の境に立つと自分の事しか考えなくなってしまうものらしい。

 ‥‥‥‥‥木下五郎が死んだ‥‥。私が殺したようなものだ。もう一回だけ登ってからと皆が言った時、すでにキャンプへ帰るつもりでいた私は、皆を制止して引き上げるべきだったのだ。
 彼らの安全を導くためには、的確な判断と決断が必要だった筈なのに、彼らの逸る気持ちを静止するどころか、自分まで調子に乗ってしまったために招いた事故だった。
 私が日本を発つ時、木下五郎の奥さんが、

  「うちのひとにはまだ言っていないけど、二人目の子供が出来たらしいの」

 そう言いながら見送ってくれた。その言葉の裏には、 「絶対に無事で帰って来て!」という強い願いが込められていた筈だった。
 暫くの間、私は呆然としてその場に立つ尽くしていた‥‥‥。


 まさに奇跡だ ‥‥‥‥こんな事が起こりうるのだろうか。
 巨岩の下から、押し潰された筈の木下五郎が這い出して来て立ち上がったのだ。しかもほとんど無傷のような状態で‥‥‥。この世に奇跡があるとすれば、正にこの事を言うのだろう 。
 あれほど噴出していた血は、実はトレーニングを終えた時に飲むつもりのビール瓶が潰されて流れたものだった。私たちは濃い目のゴーグルをしていた事もあって、極度の緊張と動転で血液と間違えてしまったのだった。
 木下五郎は、暫くの間放心状態だったが、平静さを取り戻すと恐怖を噛み締めるようにして瞬時の出来事を語ってくれたが、結局本人にも、どうして助かったのかは分からなかった。
 極度の緊張のために、右足踵の上の筋肉が裂けてしまったために、病院で三針縫合して貰った程度の傷で済んで本当に良かったとつくずく思った。
 日常の生活にはなんら支障はない軽い怪我ですんだが、傷口が足首であったために、暫くの間は登山靴を履くことが出来なくなってしまった。
 登攀が出来なくなってしまった彼は、地団太踏んで悔しがったが、命があっただけでも良かったと思って諦めろと慰めるしかなかった。

    

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